ブログ - 川口の寺院|浄相院(公式)|浄土宗 https://josoin.jp 浄相院は川口市にある浄土宗のお寺です。 浄相院(じょうそういん)は埼玉県川口市にある浄土宗のお寺です。墓地分譲、永代供養がございます。心のご相談から、墓地分譲、永代供養まで、まずはお気軽にご相談くださいませ。 Sun, 17 Mar 2024 08:12:09 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 https://josoin.jp/wp/wp-content/uploads/2021/10/グループ_-3-オブジェクト-2.png ブログ - 川口の寺院|浄相院(公式)|浄土宗 https://josoin.jp 32 32 2024年3月号『未来を信じて』 https://josoin.jp/2024%e5%b9%b43%e6%9c%88%e5%8f%b7%e3%80%8e%e6%9c%aa%e6%9d%a5%e3%82%92%e4%bf%a1%e3%81%98%e3%81%a6%e3%80%8f/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=2024%25e5%25b9%25b43%25e6%259c%2588%25e5%258f%25b7%25e3%2580%258e%25e6%259c%25aa%25e6%259d%25a5%25e3%2582%2592%25e4%25bf%25a1%25e3%2581%2598%25e3%2581%25a6%25e3%2580%258f https://josoin.jp/2024%e5%b9%b43%e6%9c%88%e5%8f%b7%e3%80%8e%e6%9c%aa%e6%9d%a5%e3%82%92%e4%bf%a1%e3%81%98%e3%81%a6%e3%80%8f/#respond Sun, 17 Mar 2024 08:10:45 +0000 https://josoin.jp/?p=1723 月訓カレンダー三月の標題です。  春は別れと出会いの季節。卒業や退職、異動などで住み慣れた場所から去ることになります。離れたくない気持ちがある一方で、やっとこの嫌な場所と別れられるという安堵の思いの方...

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月訓カレンダー三月の標題です。

 春は別れと出会いの季節。卒業や退職、異動などで住み慣れた場所から去ることになります。離れたくない気持ちがある一方で、やっとこの嫌な場所と別れられるという安堵の思いの方もいるかもしれません。

 そして、入学、転職、転勤など新しい地での営みが始まります。どうか今まで以上によい出会いがあってほしい、よい境遇であってほしいと誰もが望みます。

 また、とうに現役は退いておられるご年配の方々も春の到来はいち早く感ぜられ気持ちがはなやぐようです。

春はどなたにとっても期待と不安が混沌としている季節ではないでしょうか。

さて、私たちは今までどれだけ春を迎えてきたのでしょう。そしてあとどれだけ春と出会うのでしょう。

冬来たりなば春遠からじ

必ず来る春を願っての故事ですが、私たちのこの世の命は限りがあります。

人の一生において、卒業式を葬儀式ととらえて入学式を極楽往生と(たと)えられないでしょうか。この世との別れはなにより怖くつらいことには違いありませんが、私たちには次の世界が約束されています。彼の地へ往生させて頂くことが入学式。そう考えると少し楽しくなります。

善導大師のお言葉です

人間悤々(そうそう)として(しゅう)()を営み、
年命の日夜に去ることを覚えず。
灯の風中にありて滅すること期しがたし。
忙々(もうもう)たる六道に定趣(じょうしゅ)なし。
いまだ解脱して苦海を出づることを得ず。
いかんが安然として驚懼(きょうく)せざらん。
おのおの聞け。強健(ごうこん)有力(うりき)の時、
自策(じさく)自励(じれい)して常住(じょうじゅう)を求めよ。
(意訳)
人間はあわただしく日常生活のさまざまな勤めをあくせくと営み、あっという間に月日が過ぎてしまうことをなんとも思っていない。
ローソクの火が風の中にあっていつ消えるともわからないように、次々と六道を生まれては死にを繰り返して、落ち着くところが無い。
いまだに苦しみの世界を出て、悟りの世界に到ることが出来ない。どうして、日々をぼんやりと過ごし、驚き恐れずにいることが出来ようか。
おのおのよく聞け。健康でいられる時、自らつとめ励んで、極楽を求めよ。

今月の標題の「未来」とは極楽浄土、そして「今日を励む」とは毎日のお念仏ととらえることができます。

お念仏をお唱えすることは仏さまのお名前を呼ぶこと。この私は無力で仏さまのお力なしでは救われない罪深い人間なのでどうかお助けくださいと願うこと。そんな気持ちでお唱えすれば不安は和らぎましょう。こんな私だけのために仏さまはいるのですから。

 もうすぐお彼岸が巡ってきます。

未来への思いを馳せて大切な方々へのご供養に励んで参りましょう。

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2024年1月号『どうする、わたし』 https://josoin.jp/2024%e5%b9%b41%e6%9c%88%e5%8f%b7%e3%81%a9%e3%81%86%e3%81%99%e3%82%8b%e3%82%8f%e3%81%9f%e3%81%97/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=2024%25e5%25b9%25b41%25e6%259c%2588%25e5%258f%25b7%25e3%2581%25a9%25e3%2581%2586%25e3%2581%2599%25e3%2582%258b%25e3%2582%258f%25e3%2581%259f%25e3%2581%2597 https://josoin.jp/2024%e5%b9%b41%e6%9c%88%e5%8f%b7%e3%81%a9%e3%81%86%e3%81%99%e3%82%8b%e3%82%8f%e3%81%9f%e3%81%97/#respond Wed, 10 Jan 2024 05:03:17 +0000 https://josoin.jp/?p=1650 あけましておめでとうございます。 大河ドラマ「どうする家康」も昨年末に最終章が終わりました。 今までの家康伝と違って今度の家康は家康自身の内面を切り口に面白、おかしく作られていました。強い家康ではなく...

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あけましておめでとうございます。

大河ドラマ「どうする家康」も昨年末に最終章が終わりました。

今までの家康伝と違って今度の家康は家康自身の内面を切り口に面白、おかしく作られていました。強い家康ではなく、弱くめめしい家康。そしてどんな家臣たちをも信頼する人のいい家康。こんな身近なキャラクターが見る者を引き付けていたのかもしれません。

旗印は有名な「厭離(えんり)穢土(えど)欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)

(けが)れ多きこの世を(いと)い、清らかな極楽浄土を求める)

九死に一生を得た(おけ)狭間(はざま)の戦い。逃げ延びてきた大樹寺(だいじゅじ)で自害寸前に時の住職(とう)()上人から授けられた言葉でした。それ以降お念仏に深く帰依してこの旗印の下で天下を治め、晩年はお念仏に、写経にと見送った人達への供養を重ねてきたのでした。

もちろんそれまでの間幾多の試練があり危機がありました。大河ドラマではその都度「どうする?」と家康に問います。そこをなんとかかんとか選択を重ね押し進んでいくところに妙味があります。(たと)えるにアミダくじの曲がり角をうまく進んで最後に天下取りのゴールに到達するようなものでしょうか。

法然上人もまた、選択に選択を重ねられた方でした。今までの教えでは限られた人達しか救われない。どうしたから万人が極楽浄土に救われるか。来る日も来る日も経蔵に(こも)り教えを探しました。

そこでようやく見つけられたお念仏の教え。ただナムアミダブツの一声で救われる。まして相続(何度も続けること)が出来れば極楽に生まれること(往生)は疑いのないことである、という経文を発見されたのでした。

その教えが世に広まって来年で八五〇年。本宗では記念の法要を全国の各寺院で営みます。

(ひるがえ)って私たちの日暮(ひぐら)しもまた「どうする?」の連続と言えます。些細なことから、人生の岐路に立つことまで、選択の連続ではないでしょうか。ときには答えが出ずに悩むことも少なくありません。 

そんな時にはどうすればよいか。

法然上人のお言葉です。

「阿弥陀仏は八万四千の光明を放ちて照らし給うなり。平生(へいぜい)の時照らし始めて、最後まで捨て給わぬなり」

(阿弥陀佛の大きな光明は念仏申す私たちのことをいつも照らしてそれは生涯続きます。)

 私たちが迷いながらも選択したことはずっと仏さまが光を照らして(まも)ってくれているというのです。だからどんな選択をしたとしても仏さまがついていてくれる、自信をもって進んでくださいと応援されているのです。

 アミダくじの縦横の線の由来は仏さまの光明です。阿弥陀仏像の背面の後光と呼ばれる大きな光がはじまりです。あたかも私たちが選択を重ねているその瞬間を見守ってもらっているような気持ちになりますね。

本年も仏さまと共に幸多き年にして参りましょう。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

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2023年9月号『気配』 https://josoin.jp/202309_kehai/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=202309_kehai https://josoin.jp/202309_kehai/#respond Sat, 23 Sep 2023 07:53:02 +0000 https://josoin.jp/?p=1549 猛暑のこの夏でしたが朝晩にはわりと涼しい風が吹くようになり、秋の気配が感じられます。  気配とははっきりとは見えないが漠然と感じられる様子のこと。暑さでさんざんな目に遇った分だけ涼しさには敏感になって...

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猛暑のこの夏でしたが朝晩にはわりと涼しい風が吹くようになり、秋の気配が感じられます。

 気配とははっきりとは見えないが漠然と感じられる様子のこと。暑さでさんざんな目に遇った分だけ涼しさには敏感になっている私たちがいるようです。

同じような言葉に「きざし(兆し」があります。もとは「気差し」と言われます。「気」は万物を育成する大地の精気。大自然にあふれる不思議な力が差し込んで四季折々の自然現象が織りなされてきたとされます。

それと同時に私たちはこれらの言葉を通してほんの些細な変化が何か良いことに、ひいては大きな幸せにつながっている期待を感じることがあります。今いる状況が厳しければなおさら期待は膨らみます。

無量寿経(むりょうじゅきょう)」に次の一節があります。

もし、三途(さんず)(ごん)()(ところ)()りて()の光明を見たてまつらば、(みな)休息(ぐそく)を得て(また)苦悩なし。

(もし、地獄などの苦しみの中にあって、この光明を見ることができれば、みな安らぎを得て、悩み苦しむこともなくなる)

光明とは仏さまの光のこと。どんなに苦しい中でもほんの一条の光明を感じることができればお念仏をお称えすることによって必ずその困難から抜け出し心休まる、と説かれています。

芥川龍之介の有名な小説に「蜘蛛(くも)の糸」があります。地獄に落ちたカンダタという男がある日ふと見上げると細い蜘蛛の糸が垂れ下がってきているのに気が付きました。しめた、これを(つた)っていけば極楽に行けるかもしれぬ、とひたすら登っていきます。途中上を見上げると確かに明るい世界が見える、もう少しだ。しかし下を見やるとそこには自分と同じ糸を伝ってどんどんほかの悪人どもがすぐそこまで来ている。降りろ、これはおれの糸だ、とカンダタが叫んだ瞬間に糸は切れ地獄へ真っ逆さまに。

私たちのまわりにはこうした救いの糸が確かに存在するように思えます。要はそれをどのように自分が信じていくかではないでしょうか。

お念仏は誰にもできるた(やす)い行と言われます。しかしその一方でひたすら続けていくことはそれほど簡単ではないかもしれません。

カンダタは光明の気配を感じ取ることができました。しかしその後、他人に対する気配(きくばり)に欠けました。

とはいえ私もまたカンダタと何も変わりません。もとよりこのように批評する資格など持ち合わせておりません。ただお念仏申すのみです。

お彼岸が巡って参ります。それまでには本当に涼しなるよう念じおります。 どうぞお彼岸にはお墓に、中日法要にお参りください。

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2023年6月号『三心』 https://josoin.jp/202306_sanjin/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=202306_sanjin https://josoin.jp/202306_sanjin/#respond Thu, 01 Jun 2023 04:29:22 +0000 https://josoin.jp/?p=1315 東北新幹線の二戸(にのへ)駅から車で南へ二十分ほど行くと天台寺という古刹(こさつ)があります。作家の瀬戸内寂聴さんが住職を務めたことのあるお寺で、境内の小高い丘の墓所に寂聴さんが眠っています。 その墓...

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東北新幹線の二戸(にのへ)駅から車で南へ二十分ほど行くと天台寺という古刹(こさつ)があります。作家の瀬戸内寂聴さんが住職を務めたことのあるお寺で、境内の小高い丘の墓所に寂聴さんが眠っています。

その墓石には「愛した 書いた 祈った」と刻まれています。生前からこのお寺に自身の墓石を建てておいたのでした。昨年の秋、晩年を過ごした京都嵐山からここに納骨されました。

寂聴さんといえば恋多き女性、その後出家して僧侶となり、法話で人を励まし、最期まで書き続けた方として有名です。「愛した 書いた 祈った」の墓碑銘(ぼひめい)は彼女そのものです。決して便利な所ではありませんが寂聴さんのお墓に(もう)でる人は絶えないようです。

 お檀家さんの最期のご様子をお聞きする機会があります。病床からご血縁の方に「ありがとう」「すまないね」という言葉を何度も繰り返し口に出される方もおられます。そんなお気持ちがナムアミダブツとお念仏となって声に出てくることは大変尊いことです。

 法然上人はお念仏申す心得として次の(さん)(じん)を揚げておられます。

1 至誠(しじょう)(しん)(うそ)(いつわ)りのない素直な心

ありがとうという感謝の気持ちに通じます。

2 (じん)(しん)=こんな私でも救われるという心

すみませんという反省の気持ちに通じます

3 回向(えこう)発願(ほつがん)(じん)=今までの善行(ぜんこう)に期待する心

よろしくお願いしますに通じます。

不思議なことに最期に仏さまの来迎を願う方々の口をつく「ありがとう すまないね よろしくね」ということばはそれがそのまま、お念仏に込められていたのでした。私たちの生死の営みはお念仏と共にあります。

とりわけ有難いのが「これからもよろしく」という期待です。今あるこの世の次には必ず仏さまによって極楽浄土に迎えられる。住む世界は違えども私たちの想いは繋がります。

寂聴さんの墓所は他の方々のお墓と並んでいますが、その一角に「今日は来てくれてありがとう」と刻まれた墓石があります。登ってきた疲れが(いや)されるようです。

当山でも永代供養墓を設置し個別の墓石を建てていただいています。そこには様々な言葉が刻まれています。お参りすると温かな想いが伝わってきます。同様にみなさま方がお墓に詣でるときも、大切な方々の声なき声が聞こえるかのように存じます。

年に一度のお盆が近づいてまいりました。大切な方々がみなさま方のもとにお帰りになる季節です。どうぞお迎えの準備をいたしましょう。

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2023年3月号『何のために生まれて、何をして生きるのか』 https://josoin.jp/202303_nannotameniumaete/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=202303_nannotameniumaete https://josoin.jp/202303_nannotameniumaete/#respond Wed, 01 Mar 2023 04:25:00 +0000 https://josoin.jp/?p=1313 重い表題を掲げましたが、実はこの歌詞はこどもから大人まで誰もが知っているアンパンマンの主題歌の一節です。 やなせたかしさんの作詞で軽快な曲です。しかしこの問いの答えとして続く歌詞は 「答えられないなん...

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重い表題を掲げましたが、実はこの歌詞はこどもから大人まで誰もが知っているアンパンマンの主題歌の一節です。

やなせたかしさんの作詞で軽快な曲です。しかしこの問いの答えとして続く歌詞は

「答えられないなんて、そんなのは(いや)だ」

と断定します。

 誰もが知っている歌でありながらその歌詞をあらためて読むとき、私たちは答えに(きゅう)します。もちろん作者も答えにくいことは百も承知で、それでも「嫌だ」と自身を鼓舞(こぶ)しているのです。

二番の歌詞はさらに辛辣(しんらつ)です。

「何が君の幸せ、何をして喜ぶ」

の問いかけに続いて

「わからないまま終わる、そんなのは嫌だ」とさらに迫ります。

終わるとはこの世の最期であり、作者は私たちにこの問いに答えが出せないまま死んでしまっていいのか、と再び問います。生きている間にそれを(さが)せよ、と私たちに課しているようです。

法然上人のお言葉に

受け(がた)人身(じんしん)を受けて、()いがたき本願(ほんがん)に会えり、生まれがたき浄土に往生せんこと(よろこ)びの中の悦びなり、とあります。

私たちが人としてこの世に生まれることは、盲目の亀が大海に漂う浮き木を見つけてその穴に首が入れられる程低いと(たと)えられます。しかし何の幸いか私たちはすでに人としての身を受けています。

さらに仏さまが私たちの申すお念仏の声をたよりに、必ずお迎えくださる。そして極楽浄土に生まれることが決まっている以上の悦びがあるだろうか、と説かれます。

やなせたかしさんは召集されて中国で終戦を迎えました。弟さんは特攻隊で戦死されたといいます。生と死が混在した時代を生きた方。だからこそ自分の身を削ってまでも他人のために生きたいというアンパンマンを誕生させたのでしょう。仏さまの限りない慈悲の御心に通じます。

三月は卒業式の季節。また、人生の節目となる季節。別れと出会いを繰り返して歳月が流れてゆきます。

本紙『寿光』も100号を迎えました。第一号が昭和四十年に先代により創刊されて以来約六十年。お読みくださる方々のおかげと厚く感謝申し上げます。これからも親しみやすい紙面づくりに励んで参ります。

出会いと別れのはるか彼方(かなた)に大切な方々がいるお彼岸が見えてきます。愛と勇気と、そしてお念仏を何よりのご縁として今を生きて参りましょう。

春彼岸にはお寺に、お墓にお参りください。

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2023年1月号『思いから行いへ』 https://josoin.jp/202301_omoikaraokonaihe/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=202301_omoikaraokonaihe https://josoin.jp/202301_omoikaraokonaihe/#respond Sat, 31 Dec 2022 21:00:00 +0000 https://josoin.jp/?p=1077 あけましておめでとうございます。 標題は本年の月訓カレンダーの一月を飾ることばです。  一年の計は元日にありと言いますが、まず目標を立てることが大事ということです。新しい年を迎えて今年こそはと思いをめ...

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あけましておめでとうございます。

標題は本年の月訓カレンダーの一月を飾ることばです。

 一年の計は元日にありと言いますが、まず目標を立てることが大事ということです。新しい年を迎えて今年こそはと思いをめぐらせます。

 しかし気がつけばほとんどが何もできないで目標だけが空しく残っている。そんな経験を私は何年もしてきました。

 何故か。

 あれもこれもと張り切りすぎる。能力以上の目標を立てる。意志が弱く続かない、等々。

 それでも振り返って子供のころから比べると、歳と共に好奇心は薄れ、理想をあきらめ現実的になり、分相応も分かるようになったはずですが・・・。

 今は逆に残りの寿命を考えて、せめて生きているうちにこれだけはなどと思いは尽きることがありません。ましてやコロナ禍に加えて戦争や自然災害。命の不安が脅かされている人々がすぐそこにいる現実があります。

法然上人がお念仏の教えを開かれた鎌倉時代もまさに京の都は疫病や飢饉(ききん)(いくさ)が頻発する不安な時代でした。そんな中、庶民の願いはどうしたらこの世の命が尽きたとき、仏さまに救ってもらえるかということでした。

そこに法然上人が今までの仏教にはなかったナムアミダブツとお念仏を唱えることで必ず仏さまは私たちを迎えてくれるとお示しくださったのでした。

庶民だけでなく武士や貴族などの層にもこの教えはみるみる広がりを見せ今日に至るまで八百五十年もの長きに脈々と受け継がれてきたのです。

善導大師のお言葉です。

(浄土に往生せんとおもわば)

必ず願と行と相たすけて、()す所みな(こく)

極楽に生まれて救われたいと思うならば、願と行とが互いに助け合うときに(極楽往生の)目標が達成されるのです。

私たちが仏さまに救われたいと思って(願)お念仏(行)すれば必ずそうなります、と説かれたのでした。

南無阿弥陀仏と申すだけで救われる。不安で目標など立てる余裕もないときこの教えはどんなにか人々を、私たちを元気づけたでしょうか。

さまざまな思いが私たちにはあります。

しかし最後に願うのは仏さまからの救いと大切な方々の安寧(あんねい)ではないでしょうか。

いつの時代もかわらずお念仏があります。

令和五年が明けました。

 初参りはまず、お家のお仏壇、そしてお寺、お墓から。

 よい年であるよう念じております。

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2022年9月号『彼岸への道』 https://josoin.jp/202209_higanhenomichi/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=202209_higanhenomichi https://josoin.jp/202209_higanhenomichi/#respond Fri, 30 Sep 2022 04:50:00 +0000 https://josoin.jp/?p=989 猛暑の夏はさわやかな秋の到来が待ち遠しく感じられます。近年は、暑さ寒さも彼岸まで、とも言い切れない時節ですが、それでも本来の秋が来ることに期待を寄せます。 秋彼岸も近いある年の九月のこと。亡夫の墓参に...

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猛暑の夏はさわやかな秋の到来が待ち遠しく感じられます。近年は、暑さ寒さも彼岸まで、とも言い切れない時節ですが、それでも本来の秋が来ることに期待を寄せます。

秋彼岸も近いある年の九月のこと。亡夫の墓参に行く道中の体験を小説にした若竹千佐子さんという作家がいます。

主人公の桃子さんは七十代半ば。夫が心筋梗塞で急死してからは一人暮らし。夫に会いたい、声が聴きたい、そんな思いで自宅から丘陵の林の小径(こみち)を上り下りしながら小半日かけて墓まで歩く。

ひとりで歩いているはずがふと見るとそこにはかつての自分の姿がある。夫との様々な思い出が再現される。夫の声が聞こえてくる。

そのとき桃子さんは確信します。

あの人の住む世界がある。その世界に通じる道があり、そこに分け入りたい。

さらに歩き進むと彼岸花の群生に出くわします。ここは以前、亡夫と一緒に写真を撮ったところでした。気持ちがほどけてゆく。亡夫がいるところに行ける期待と安心感につつまれる。

こんな体験を綴った「おらおらでひとりいぐも」という小説は芥川賞受賞作にもなりました。この作品を通じて作者は自分の気持ちを方言に託して、悲しみと共存して自らの信念で生きていく決意を()べています。

桃子さんはどこにでもいるような方なのかも知れません。あるいはいつの時代にもいる方のようにも思えます。

法然上人のお言葉です。

(しん)を問う者には示すに西方(さいほう)通津(つうしん)をもてし、行を尋ねる者には教うるに念仏の別行をもてす 

(私に彼岸への道を尋ねる者には西方極楽浄土へ通じる渡し場を示し、その方法を尋ねる者には念仏の行を教え(さと)しました)

 亡き方が住んでいるのはこの世の岸(此岸)とは対称にある彼岸です。私たちが亡き後に目指すのがこの彼岸で、お念仏の教えでは極楽浄土ともいわれます。

ここに到達するためには、お念仏を唱えるのが私たちにとって最も適した方法と法然上人はお示しされました。

桃子さんは夫が亡くなって初めて目に見えない世界があってほしい、何とかしてその世界に分け入りたい欲望が生じた、と告白します。

大切な方を見送ってからそのことを知った桃子さんの体験は尊いものです。お念仏の教えでは、もとより彼岸があり、いずれそこで亡き方と再会できることを人々に伝えてきました。

まもなくお彼岸。感染対策を行いながらお中日法要をいたします。 ご先祖の、そして大切な方の声を聞きにどうぞご参詣ください。

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何ものにも代え難い善きもの(4/4) https://josoin.jp/essay_4of4/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=essay_4of4 https://josoin.jp/essay_4of4/#respond Mon, 22 Aug 2022 14:23:35 +0000 https://josoin.jp/?p=714 この連載エッセイで私は、人生における四苦「生、老、病、死」を、一つずつ順番をずらして、「老」で始めて「病」「死」とつなぎ、最後を「生」で結ぶことにする。四苦は「死」で終るのではなく、「生」で始まると同...

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この連載エッセイで私は、人生における四苦「生、老、病、死」を、一つずつ順番をずらして、「老」で始めて「病」「死」とつなぎ、最後を「生」で結ぶことにする。四苦は「死」で終るのではなく、「生」で始まると同時に「生」で終るものだと思うからである。つまりは、「生」こそが人間にとって最大のテーマであり、最も深く最も重く追求されるべき課題なのだから。

たしかに「生」は苦である。そもそも「生」それ自体にさまざまな困難が内包されている。例えば、家族。金銭、就職、恋愛、結婚、競争、人間関係など、数えあげれば限りがない。そして生きているからこそ、老いもすれば、病気にもなり、死を迎えねばならない。だから「生」はすべての苦の始まりであり、あらゆる苦の代名詞でもあるのだ。

しかし、「にもかかわらず」、いやあるいは、「であるがゆえに」、生きることは感動や歓喜や至福といった多くの善きものに満ちている。生の肯定感を追求しつづけた作家の辻邦生は『モンマルトル日記』の中でこう書いている。≪時のうつり、死、病気がなかったら、この「生のよろこび」はなくなるだろうし、日々は砂を噛むような繰りかえしにすぎなくなる。生の目的というものがあるとすれば、立身するのでも金持になるのでもなく、その置かれた場所で、ただちに、この「生のよろこび」に深く同化し、生を成就させることなのだ。≫

そうなのだ、自分が今いる場所で、どれだけ深く「生のよろこび」を自覚し、味わい、同化することができるかに、生きることの真の意味があるのではないだろうか。もう一度、辻邦生を引用すれば、≪しかもこの「生のよろこび」はただ死を媒介としてのみ永遠のものとなり、あらゆる面において輝きだす≫のである。たしかに「生」は苦である。しかし、と同時に、よろこびという何ものにも代え難き善きものに満ちてもいるのだ。

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生の最後の行為のように(3/4) https://josoin.jp/essay_3of4/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=essay_3of4 https://josoin.jp/essay_3of4/#respond Mon, 22 Aug 2022 14:21:36 +0000 https://josoin.jp/?p=711 かつては、お盆は今よりもずっとずっと人々の暮らしに深く根づいた大切な行為だったように思われる。明治生まれの私の母もお盆を迎えるにあたり、押し入れから折りたたみの小机を出して、その上にお供えものを並べた...

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かつては、お盆は今よりもずっとずっと人々の暮らしに深く根づいた大切な行為だったように思われる。明治生まれの私の母もお盆を迎えるにあたり、押し入れから折りたたみの小机を出して、その上にお供えものを並べたり、提灯を飾ったり、準備に余念がなかったことを子供ごころに記憶している。一年に一度、先祖の霊を我が家に迎え、一緒の時間を共有し、再び送りだすという行事には、先祖への敬いと親しみと懐かしさが強く感じられる。そこにあるのは、死者との交歓であり、死そのものとの触れあいである。

 人生における四苦の一つに、いや最後に「死」がある。これほどに重い苦はあるまい。死は苦そのものとも言える。人は生き、そして死ぬ。必ず死ぬ。一個の人間にとって、これほどに切実で痛烈で深甚なテーマがあろうか。だからこそ、死は「表現」にとって最初の、そして最大の衝動となり動機となる。その結果、文学があり、絵画があり、音楽があり、演劇等の表現があり、その最後に、いやそのそもそもの始まりに、宗教がある。

 古代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスは『自省録』で、「すべての行為を生の最後の行為のように行う」と書いている。これは実に強い言葉である。実に激しい言葉である。実に重い言葉である。そして凡なる私にとって行うに実に困難な言葉である。

 すべての行為を今日が、今が最後だと思って行え。明日があるから、いつかがあるからと思ってその行為を軽んじたり、いい加減に扱ったりしてはいけない。何事ももう二度とはないのだと思ってベストを尽くせ。おそらくアウレリウスもそう言って自分自身を鼓舞しながら生涯の日々を生きたにちがいない。

 芭蕉の言葉に「平生すなわち辞世なり」がある。平素の一句一句が辞世である。常日頃、これが最後の一句だと心得て言葉を紡げ。わずか十七文字の中に辞世を詠み込め、という芭蕉の俳句道の厳しさと深さがここにある。

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新たな、そしてかけがえのない意味(2/4) https://josoin.jp/essay_2of4/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=essay_2of4 https://josoin.jp/essay_2of4/#respond Mon, 22 Aug 2022 14:12:48 +0000 https://josoin.jp/?p=707 春、三月、彌生。  こう書いただけで、心が少し浮きだってくる。  暑さ、寒さも彼岸までと言われるように、春のお彼岸を迎えると、ほのあたたかな春の陽ざしが感じられるようになる。彌生とは草木がいよいよ生い...

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春、三月、彌生。

 こう書いただけで、心が少し浮きだってくる。

 暑さ、寒さも彼岸までと言われるように、春のお彼岸を迎えると、ほのあたたかな春の陽ざしが感じられるようになる。彌生とは草木がいよいよ生いしげるさまのことで、旺盛な生命力を意味する。陽気が良くなると、重いコートを脱いで、大好きな町歩きを思いきりしたくなる。

 町歩きを真に楽しむためには、身も心も軽くなければいけない。つまりは、健康でなければ楽しくない。少しでも調子が崩れると、歩いていても気持ちが高揚しない。ついつい、足が重くなってしまう。健康な時は町歩きが楽しいし、その逆に、町歩きが楽しい時は健康であると言える。

 人生における四苦の一つに「病」がある。確かに病は苦しい。ちょっと調子が悪いだけでも、心の天秤は悲観的な思いの方に傾く。ましてや、長い病や重い病なら量り知れぬ苦しみがそこにはある。

 作家の堀辰雄は、小説「風立ちぬ」の中でサナトリウムに入った婚約者につきそう語り手の青年に次のような感慨を抱かせる。

「そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私たちの日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。」

 49年の生涯で、十代の終りの発病から30年にわたり病と向き合って生きた堀辰雄ならではの、靭く、深く、尊い心境ではないだろうか。  堀辰雄が苦しい病の中でそうした気持ちを持つことができたのは、ひとえに生きんとする意志の力であり、「普通の人々が、もう行き止まりだと信じているところから始まっているような」(「風立ちぬ」)人生に、新たな、そしてかけがえのない意味を見出したからにちがいない。

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